今回は、宮城高齢協の組合員活動部会の企画による「戦後70年、今伝えたいこと」の冊子にまとめられた組合員の皆様からの文章をご紹介させていただきます。
 冊子掲載の文章は今後も引き続きご紹介させていただく予定です。

 

同じ人間、同じ命 
池田 晴菜  仙台市青葉区 

 私は日本人ではないが、戦争のことは知っている。みんな平和だ、幸せだと言うが、根本的に戦争を経験して何が大事なのかを考えているのか、少し疑問もある。今の平和や幸せがあるのは戦争を通して何か得たものがあったからだと私は思う。
 そこの根本には人の命が犠牲になり、同じ人間同士の欲で数多くの大事な人が命を亡くしたという結果のおかげかもしれない。
 国とか関係なく、同じ人間である以上は命だって同じく大事であることの大切さは忘れてはいけないと思う。

 

本当のことが書けなかった新聞人 
出雲 幸五郎 仙台市若林区  

 戦争中の新聞は本当のことが書けませんでした。朝日、毎日、読売、河北の共同新聞でした。昭和20年7月11日の仙台空襲のことを書いた河北新聞を私は持っていますが、仙台が焼け野原になって4千人以上市民が死んだことを書いていません。
 20年8月、河北の論説委員寺田はもう日本は負けたと書きました。軍は怒って、一力社長寺田の首を切れと迫りました。寺田は4Bの鉛筆で辞表を書いて退社しました。
 20年8月15日、日本の負けが本当になりました。寺田は退職後、向山に住んで菅野邦夫氏と野草園を造りました。

 

わたしの戦後70年
太田 まさ子(80歳)仙台市泉区
(聞き書き:宮城高齢協 山田栄作専務理事)

小学校5年生の時に若林区にいて仙台空襲にあった。
父は出張で出かけていていなかった。
母と兄弟と一緒に防空壕に入った。
真っ暗で、声を出すとまずいから静かにしていた。
B29がいなくなって、家に戻った。

大空襲の時、仙台は見られなかった、人がいっぱい死んで、かわいそうで・・・
戦争なんてなくていいと思いながら、母の実家の石巻に疎開した。
2ヶ月間石巻にいて、その間石巻の小学校に通った。
父が帰ってきたので、若林に戻った。
戦争が終わって、父が脳溢血になり仕事ができなくなった。
親は生きている時はいいが、いなくなってみると寂しいもんだ。
空襲は嫌だなーと何回も思った。5年生の時だから、覚えてるんだ。

 

わたしの戦後70年
笠原 京子(80歳)仙台市泉区
(聞き書き:宮城高齢協 山田栄作専務理事)

女学校に入ってお金を払って、勉強もしないで、防空壕を掘らされた。
次には、三里歩いて牧場に行って、小さい草刈り鎌で牧場の開墾をさせられた。
こんな小さな草刈り鎌でですよ。
先輩たちは軍需工場で働いて、私たちが牧場に行くのを見て手を振ってくれた。
三里歩いてですよ、勉強しないで、お金を払って牧場開墾ですよ。

お昼ごはんになって、お弁当を広げた。
隣の子が弁当を開けないので、どうしたのかと聞いたら、「朝おかゆだったから、弁当に詰めることができないから」と、そう言うんですよ。
かわいそう。
今の子に言ったら、店に行って弁当買えば良いのにといわれるが、当時は三里歩いていく途中にはお店もなかった。
電車もバスもなく、歩く。
そういう時代だったんです。