「戦後七十年・・・今、平和と憲法を語る」あの戦争の惨さを風化させるな?

福岡高齢協・ミナミ事業所・長谷健司

 昭和20年8月15日、敗戦。日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。この日、国の内外に玉音放送が流れ、様々な立場の邦人が悲痛な思いを胸に敗戦を迎えていた。
一方、中国大陸では敗戦前夜の8月9日、ソ連国境からソ連軍が重戦車軍団を先頭に怒涛の如く侵攻し、ソ満国境付近の開拓団の村々を攻撃して多くの邦人を殺傷した。当時、日本とソ連の間には「日・ソ不可侵条約」があったにもかかわらず、ソ連軍が一方的に破棄して進撃してきたという事実。ここから開拓団の悲劇が始まったのだ。旧満州国(現在の中国東北部)に開拓団を送り込む政策は昭和11年5月、当時の広田内閣によって決まり、日本の農民を5年を一期として第4期までの20年間に百万戸移住させる計画であったという。
 この満州移民は、当時の日本の疲弊した貧しい農村の復興政策という美名のもと、国内向けに喧伝し、全国から移住者を募集して満州へと送り込まれたのだ。このソ満国境付近に開拓団を送りこんだ日本政府の目的(意図)は何であったろうか。そして開拓団の点在した村々が、実は関東軍(当時の日本軍精鋭部隊)駐屯地よりも北の先、ソ満国境付近だったこと。しかも、その関東軍が昭和20年5月(敗戦の三ヶ月前)に満州の4分の3にあたる開拓団の地域を放棄して撤退していたこと。その撤退に際し、ソ連軍の侵攻を予見し阻止するため重要な鉄橋や橋・道路を破壊したから、開拓団の老人や女・子どもたちが避難できず、生き地獄の中で多くの犠牲者を出した…という事実。ソ連軍の攻撃と避難途中での悲惨な出来事は当然、起こるべくして起ったことなのだ。だからソ満国境付近の開拓団は、初めから対ソ戦略(作戦)の一つとして考えており、万一、ソ連軍侵攻の場合、ソ連兵を釘付けにするための捨て石として利用する冷酷な政策であった…という疑惑。何という非情、なんという罪業であろうか。
 これらの事柄を知るにつけ、戦争の惨さ、恐怖、人間性の狂気を思い知る。戦争は罪のない弱者(老人・女性・子供・障害者・病人等)を巻き込み、不幸を強いて、命まで取り上げようとして、その運命まで狂わせてしまう。戦後70年、あの戦争の惨さを風化させてはならない。どんな美名の元でも、戦争をしない・させない・許してはいけないのだ。
(かく言う私も、旧満州国奉天市からの引き揚げ者の一人であり、先に述べた事柄は生前の父からの聞き書きと、市立図書館で得たデーターによるものであることを記す。)