戦後を思う

北九州市八幡東区 毛利 和江 76歳

 私は小学校1年生の夏休みに終戦を迎えました。けれどもその日の事は全く覚えていません。小学校入学の時は戦時中でしたが、母親がもえぎ色の羽二重で簡単服を作って、橙色と白の縞模様の夏帯で横かばんを作ってくれて式に参加した事をよく覚えています。

 入学後は授業中に空襲警報のサイレンが鳴ると上級生の所に行き隊列を組んで家に帰ります。その途中サイレンが鳴り何回か付近の防空壕に入れてもらった事もありました。家にはおばあちゃんと母と妹の四人暮らしで爆弾が落ちて焼けない様に畳はあげて立てかけ、家財道具は穴を掘って埋めていました。警報が鳴ると大切な物を体に巻きつけて裏山にあった防空壕に急いで入ります。近所に精神障がい者の肥った男の人がいて嫌がって入ろうとしないので、年老いた母親が一生懸命引っ張っていました。

 終戦になると学校では勉強らしいことはせず、教科書を開いて黒塗りばかりしていました。

 一年生から二年生になる春休みに花の仕事場の人達と折尾公園に花見に行きました。その夜父親が戦地から突然帰って来ました。頭は丸坊主で軍服を着て大きなリュックを背負った男の人でした。この人が私のお父さんなのかと思いました。妹は四歳だったので父を見ると泣き叫び、近寄ろうとせず、その後も父の膝に抱かれる様になるまでずいぶん時間がかかりました。それから、昭和二十二年、二十三年と毎年弟が生まれてから、母は病気になり寝込むようになりました。弟達の世話や食事作りなど家事は私と二歳違いの妹が受け持つ事になりました。父は炭鉱に働いて三交代をしていました。早出のときは朝三時頃から起きてご飯を炊き弟達の世話や後片付けをして学校に行きました。けれども、母が病院に行く時は学校は休みましたし、父の給料日にも学校を休み本事務所までお金を取りに行きました。学校はよく休んでいましたし、弟を連れて(学校に)行ったこともあります。

母が病気で寝ていたので弟達もよく病気をしていつも病院通いをしていました。生活は貧しく学級費も払えない状態で「女に学問はいらん。食うために精一杯で(学校のために)払う金はない。学校は行かんでいい。」と父は言っていました。小学校六年生の時、担任の先生が家に来て父を説得しやっと学校に行けるようになりました。

 戦後はみんな貧しく友達は学校をやめて子守りや奉公に行った人もいます。父や兄を戦争で亡くし引き上げ船で命からがら帰って来た人もいました。

 多くの人が命を失い苦しむ戦争をなぜするのか全く理解できません。人間がもっと楽しく豊かにそして仲良く暮らす為にも戦争を始めてはならないと心から思います。戦争は絶対反対です。