70年前の8月、日本は無条件降伏のかたちで戦争を終えました。この戦いで数多く惨害を被むり、中でも沖縄の地上戦や広鳥、長崎への原爆投下など、誰もが心痛に耐えられません。
 私はこの終戦を外地で経験した一人です。それも敗戦ですから、一体どうなることでしょう。外地とは現在の中国東北部。「広大な凍土を肥沃な黄金地帯に…」と、政府は多くの開拓団をこの地に送り込みました。その他、満州鉄道やいろいろの事業に日本の技術を駆使しました。しかし、軍国主義の日本は国際感覚に於いて未熟さはなかったでしょうか。「支配」や「侵略」をどのように考えていたのでしょうか。

 戦前、この東北地区に居留している一般邦人は約155万人と云われています。そんな中、次第に戦時色が濃くなり、家族の柱である夫や父親、若者の多くが関東軍に召集され、留守家族は老人、女性、子供と心細い限りです。そこに悲劇の始まり、つまりソ連軍対日参戦です。
 そういう状況のもと、テーマを一点に絞ってみましょう。

 「中国残留孤児」、皆さんご存知の言葉ですね。何故この[中国残留孤児]が発生したのでしょう?
 北の国境からソ連軍が侵入し「オンナ、オンナ」、と赤い鼻で叫ぶのです。当時の女性は髪を男性のように短く切ったり、坊主にして変装したものです。段々暴動が激しくなり、一般邦人の逃避行が始まることになります。老人男性達の指揮のもと運のいい人は鉄道を使えますが、この広漠たる大地にやすやすと鉄道がある訳でもなく、徒歩で山河を逃げ惑います。
 大なり小なりの巣団で行動しますが、着のみ着のままの弱者に執拗な追手の目的は何なのか。逃避行が長びくと、飢えや病気、凍死など、幼い者から命を落とします。いざという時は「集団自決」用の青酸カリも懐に秘めて…と、死の条件は多々あっても生きる条件はあるのでしょうか。一つだけありました。それは乳幼児を中国人に託し、育ててもらうことでした。集団の中で赤子の泣き声は敵にみつかるからと泣く子の□をふさいで息絶えることより、親は手放すことの方を選択するのですね。子供を手放して悲しみに浸ってはいられません。次はその上の子をいつまで守れるか…なんです。

 当時、私は冷静な小学校年中さんでしたから、こんな環境に置かれたら、そんな歳でもたちまち大人っ気を発揮して出来る限りの力を尽くすものですね。父が出征する時、親しい中国人に「何かの時は私と妹を預かって欲しい」と依頼していたようですが、ヨチヨチ歩きの妹を背負い、寒かろうとまたその上に大きなリュックを背負いました。集団もだんだん小さくなり、安全地帯を求めて南下する人々の心に喜怒哀楽などは無く、ひたすら本能的に生きたものです。こんな状況ですから、終戦が何時かもわからない。国民を守る筈の軍はいつの間にやら内地に引き揚げ、棄民となった私たちは怒りをぶつける矛先もありませんでした。
 外地で敗戦を迎えると、その国の人の恨みも受けとめなくてはなりませんでした。反面、親切な中国人には助けられました。

 人間が幸せに生きるには、世界の総ての人々を友とし、決して戦争をしてはいけません。そして人々を飢えさせてはいけません。  

福岡高齢協 組合員 梅原 紀子