戦後70年に当たり、高齢協ニュースで戦争体験を語っていただいている。
本当に胸痛む証言が続いている。
高齢協連合会ニュース95号の高知高齢協の濱田氏のご証言によれば、部隊の仲間85名中、生存者はわずかに10名。これでも、「勝った、勝った」というのが、大本営発表の実態だった。日本は太平洋戦争では負けたが、中国戦線ではすべて勝っていたという話もあるが、本当にそうだったか。遺骨さえも戦場に野晒しのままもう70年になる。国の発表のいい加減さがこれでわかる。
先の大戦での日本軍の戦死者230万人、一般住民は約80万人。その日本軍の6割は、戦闘ではなく餓死や戦病死だったという。兵站(武器弾薬、食糧医薬品を前線に搬入する軍事行動)今でいう後方支援もなく、孤立したなかでの見殺し同然の戦死だった。

敗戦必至の状況下で、本土決戦を遅らせ、国体護持交渉を少しでも有利にするための沖縄戦は「捨て石」作戦と呼ばれた。そのため日本軍は、南部に撤退し沖縄戦を引き延ばした。その撤退の時には、数千人の傷病兵が青酸カリで始末され、あるいは自決を強いられた。
沖縄戦の慰霊碑には、日本軍は勇猛敢闘,奮戦したことになっているが、戦没者には敵に殺されただけでなく、日本の兵士たちは自国の軍隊に殺されていた。その数は決して少なくはない。
陸軍病院があった南風原町には、「二千人集団自決之地」という慰霊碑があったが、足手まといになる傷病兵は処分されたというのが真相だ。
その一方で、日本軍は、住民の食糧を奪い、自然壕やお墓に隠れていた住民を避難壕から追い出し、スパイ容疑で住民を殺した。「沖縄語(方言)をもって会話している者はすべてスパイと見なし処断すべし(処刑する)」という軍命が出ていた。
それだけではない、「軍官民共生共死」と叫ばれた国家総動員体制のもと、住民もまた自分や家族が生き残るため、他の人を見殺しにせざるを得なかった。避難先では食糧を奪い合い、スパイ容疑の密告もしあった。
鬼畜米英という宣伝に恐怖した住民は、親が子を、子が親を、鎌やかみそり、縄で首を絞めて殺した。軍は手榴弾を配布して、集団自決を促した。捕虜になった住民から日本軍の動向や位置を知られてはならないという、日本軍の防諜と食糧確保と作戦行動がその背景にあった。

沖縄戦時、私は生まれたばかりのゼロ歳。生後すぐに南西諸島全域に対する10月10日の空襲があり、那覇はじめ軍隊が配備された町は全滅した。12月には当時住んでいた南風原村では弾薬や物資を運ぶ列車大爆発事故が起こった。孤立して補給のきかなくなっていた中での日本軍の大失態だが、軍事秘密ということで他言は禁じられた。
食糧不足のなか口減らしと足手まといになる子どもや女性や老人の本土や台湾への疎開が進められたが、8月には学窓疎開船対馬丸の米潜水艦により撃沈されたが、軍事秘密として箝口令が布かれた。我が家では、私が出航直前に生まれため、対馬丸には乗らなかったと聞かされてきた。
そして、米軍上陸の直前2月ごろ、母は、ゼロ歳、二歳、四歳、八歳、十歳の五人の子どもを一人で抱えて北部山中に避難した。住民の避難小屋にはゲリラ戦をしているという宇土部隊の日本兵が、度々食糧を求めてやってきて、なけなしの食べ物を武器をちらつかせて奪っていったという。そして、ゼロ歳の私と二歳の姉が泣くと「泣かすな。敵に知られる。首を絞めろ!」と殺すように迫った。ある時は実際に、十歳の姉がおんぶしていた二歳の姉に手を出そうとしたので、母が二人の上に覆いかぶさって難を逃れたこともあった。ゼロ歳の赤ん坊の私にも同じようで、日本兵が何度も首を絞めるように迫り、村の人たちの雰囲気もあって、母は、皆から離れた場所に穴を掘り私を入れた。しかし、殺すことが出来ず土をかけないでいた。あきらめられずに見に行ったらまだ生きていたという、そういうことが二回もあったというのだ。

母はそのことを私には「栄養失調で死んだと思ったから」と語っていた。母親としては、日本兵や周囲の雰囲気という事情があったとしても、赤ん坊を捨てたという負い目に終生苦しんでいたのであろう。そのことが判明したのは母が亡くなって後、姉が初めて話したからだった。その母には当時、太ももに砲弾が貫通し負傷していたらしいが、それに耐えて子どもたちを守っていたのである。私は幸いにも母親の愛で生き長らえられたが、私と同じような赤ん坊たち、子どもたちが実に沢山殺されていたのである。
戦争は残忍で汚辱にまみれたものだ。人間が人間でなくなる、それが戦争の実相である。
とはいえ、戦争体験を語るとき、私たちが忘れていけないのは、日本の侵略戦争でのアジアの周辺諸国に与えた被害のことである。
中国人の戦争犠牲者は、軍人で137万人、一般住民1000万人だと言われる。(9月3日の抗日戦争70年式典では、中国は被害者は3千万人と発表している。)この膨大な一般住民の犠牲者を見るだけで、南京虐殺があった、なかったということで侵略の事実を否定するような動きもあるが、そんなことは枝葉のことに過ぎないことがよくわかる。当時の大陸での日本軍の残忍さは、そのまま沖縄戦での日本軍の姿だった。
また、沖縄戦には多くの朝鮮人が陣地構築、従軍慰安婦として強制されていた。大東亜共栄圏のスローガンを掲げた日本がアジア諸国に侵略戦争をしかけて、周辺諸国に及ぼした被害、その残忍さ、悲惨さを私たちは、忘れてはならない。日本の政府はアジア諸国に、特に中国・韓国そして沖縄にも、日本国民にもまだ謝っていない。

こうした日本軍閥の加害の歴史を忘れ、意図的に言及しない安倍首相の今度の70年談話が、いかに日本の手前勝手なものだということは、アジア諸国は表には言わないけれども納得はしてないのではないか。一億総懺悔などと言って、戦争責任をあいまいにし、ドイツのように、戦犯を国民自らの手で裁かなかった日本の甘さが反省されなければならない。アメリカでは、今なお日本の戦犯を調査していることは多くの国民は知らされてない。2014年4月1日には米政府関係者は、日本戦犯容疑者35人が米国側の入国禁止リストに入っており、10年以上前よりも倍増した、と述べたと伝えられている。
先の大戦に対する世界の考え方とかけ離れた歴史認識で、今度は国際状況が変わったと「積極的平和主義」などと、世界中の戦争に自衛隊が参加していくような安保法制などは、沖縄戦に続いて、戦後70年、「太平洋の軍事拠点」として、アメリカの戦後の戦争にすべて付き合わされてきた私たち沖縄からすれば絶対に容認できない。今、自衛隊が本土ではできない極秘の訓練を「研修」という名目で、アメリカ軍と共同して米本土でも、沖縄でもやってきている。そうした拠点として、老朽化し、過密化している普天間飛行場の替りに、新しい基地機能を強化した辺野古新基地建設を強行している。
沖縄からみると、そうした憲法を無視し、壊していく安倍政権の行き着く先には、日本の「地獄」が待っていることがはっきりと見えている。
愚かな歴史をくりかえしてはならない。憲法九条の理念こそは、日本と世界の共通の未来なのである。