わたしの戦後70年

網岡 正義

はじめに
 私は、昭和20年8月6日原爆投下時、爆心地から約1.5キロメートルのところで被爆し、学徒動員級友五十三名中、四人の生き残りだが、奇跡的に生を得させて頂いた。その感謝の気持ちを一人でも多くの方々にわずかなりともお役に立てさせて頂いていることに、喜びを感じている。
 学徒動員
 昭和20年4月、比路山の校舎で約一年授業を受け、二年生になったばかりの時、私のクラスだけ学徒動員で中広町の軍需工場に派遣されることになった。その工場で私を特にかわいがって下さったまだ若い専務さんが優しく丁寧に指導、面倒を見て下さった。

原爆投下の前日
 8月5日、専務さんは食糧難の時代であるにもかかわらず私に夕食を御馳走してくださり、その夜は家に泊めていただいた。
その夜も不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響いておびえていたが、そのうちいつの間にか眠っていた。

原爆投下当日の朝
 8月6日、朝早く起きて、昨日泊めて頂いた専務さんの家を出た。市内を走る広島電鉄(通称広電のチンチン電車)に乗って中広町の工場に急いだ。電車には鈴鳴りに人が乗っていて、乗降のステップまでぶら下がるほど。工場に着いた時には級友達の殆どは工場前の広場に既に集合していた。その日は工場の仕事はなく、市内密集地の建物を倒壊する「建物疎開」と称する勤労奉仕の日であった。爆撃を受けて火災が発生した時の避難場所づくりである。私は、その日も情報という任務で守衛所に残ることになった。他に二人の級友も残ることになったが彼達は本事務所務めとなり、私を含め三人は勤労奉仕に出かけなくても良いことになった。

警 報
 少ししてから警戒警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。私は、ラジオから流される放送のメモを取った。「中部軍情報、中部軍情報、只今敵機が北上中」と放送している。間をおかず空襲警報に入った。毎日のことなのでそれほど危険とは思わなかったが、工場の従業員、級友達は防空壕に一時避難した。

B29の爆音
 警報が解除となったが上空で微かに「グ~ング~ン」と爆音が聞こえる。おかしいなあ、と思いながら上空を見上げると雲一つない紺碧の空に銀色に輝く白い飛行機雲を流して北上するB29が見えた。私は暫くの間、顔に手をかざして見とれていた。級友たちは間もなく先生に引率されて現場に出発して行った。

原爆投下
 出発して行ったあと、私は守衛所に戻り窓側に寄せつけてある机に向かって腰掛けた。工場は何時もより騒音が少なく、時々溶接のバーナーが「シューシュー」と音を発しているぐらい。そのまま何を考えるでもなくボーっと椅子に座っていた。その瞬間、強力な光線が眼前に覆い被さり、一瞬目の前に置いてあったラジオが爆発し火の玉と化して被さってきたのか、マグネシュームをいっぺんに焚いたものが眼に飛び込んできたのか、何が何だかわからなかったが、バリーっと身体全体に激痛が走って耳が張り裂けるようだった。そしてそのまま気を失ってしまった。
後日、原爆のことをピカ・ドンという言葉が流行ったが、私はピカッと光ったことだけでドンという音のことは知らない。気を失ってどれくらい経ったか、気がついたときは真っ暗で何も見えなかった。目を開けようとしても目が開かない。目、鼻、口に砂と塵が入り、ニカワで張り付けられたようにカチカチに固まって痛かった。遠く近くで、「ドドードドー」と地鳴りがして不気味に体に伝わってきた。「あー直撃弾でやられたんだ」と頭の中をかけめぐった。

目が見えない
 私は助かった。それにしても目が見えないのが不安を募らせた。体全体に破壊材が被さって体を揺すっても外れそうにない。そのうち微かに動くほどになったが、腹這いのまま倒れた姿勢でじっとしていた。

明かりが見える
 もごもごしているうちに、やっと右手が抜けたので目を擦って両目にこっぱりついていた砂塵の塊を取り除いた。すると微かに明かりが眼に入ってきた。「ああ明かりが見える」こんな嬉しいことはない。目は負傷していない!口と鼻にはまだ砂塵が入り込んだままになっているが目が見えてきたことが何より安心させた。そのうちに口、鼻の砂塵を取り除いたが、私だけがこんなにやられたのかそうでないかも分からない。「うん、やられたか」と思ってじっとしていた。
 後の方からゴーゴーっと音がして近づいてきてるように感じた。火災が近くで起こっていると思うと焦りが出た。
 周囲は異様に臭い匂いがして鼻を突く。覆い被さった雑材を払いながら外に出ると、私のいた守衛所は木端微塵に跡形もなく吹っ飛ばされ横手の堤防に当たっていた。

無残な状景
 外に出て少し経つと両目がよく見えるようになった。周りは見るも無残な倒壊と火災であった。市街全体が燃えていて一瞬に亡くなられた死骸と燃え上がる火焔の中から張り裂けんばかりの声を出して助けを求める姿が火焔の中に吸い込まれてゆく。大きな角材に挟まれて身動き出来ない者もいる。家屋に押し潰されて出ようにも出ることが出来ないで苦しんでいる人。おびただしい死体と火傷でうめいていた。誰もが顔、両手、足が焼けただれ皮膚が垂れ下がって誰かれの区別がつかない。
余りにも変わり果てた情景に唯々唖然とするばかりだった。

水をくれ
 少しでも広い場所に逃げなければと広場を求め逃げ惑う重症者の群れ、誰もが「水をくれ、水をくれ」とせき立てる。その声は絶えることがなかった。河畔の浅瀬には水を求めて入ったのだろうか、そのまま浅瀬に顔を突っ込んだまま死んでいる。このような姿で死んでいる死体が無数にあった。堤防の斜面草叢で既に死んでいる母親の側で、母親が死んでいるとも知らずワーワーと泣いている赤ん坊、生き地獄であった。
 当時のことが次から次と浮かんできて涙が溢れどうしようもありません。
心からご冥福を祈ります。