戦後70年の今

平田 照子

 ある日、家族で公衆浴場へ行った。すると突然、空襲警報発令のサイレンが鳴り、電気が消えた。私と妹弟はそれぞれ、祖母、母、叔母の背におんぶされ、家に逃げ帰ったことを憶えている。
 空襲がひどくなってきて、私達母子は御嶽へ疎開することになり、祖父母は私達母子の家財道具を大八車に積み、焼夷弾の降りしきる中を命がけで運んでくれた。途中何度も荷を捨てて帰ろうか悩んだと、祖母が話してくれた。

 その後祖父母は、守っていた名古屋北区の家も全焼し、終戦後に私達母子が名古屋へ戻った時には、小さな借家で私達を待っていてくれた。
 父(当時32才)は昭和20年7月22日、ビルマ(現ミャンマー)で戦死したことになっていたが、当時、こちらからの問い合わせに対して、昭和21年8月19日時点でのビルマ隊長からの通知では未だ「生死不明」になっていた。
 戦友が帰還し、母の元を訪ねて来て下さって「死んだらしい」の知らせを受けるも、母は84才で死亡するまで、父の死を受け止められなかったと思う。父の出征の時の写真を敬老手帳と一緒に大切に持ち歩いていた。出征後より、父から私達に届いた便りは23通に及び、家族一人ひとりに対する想いがいっぱい詰まったもので、母の手で大切に保管されていた。

 その後、大黒柱を亡くした祖父母と母は、家業の洗い張り、畑仕事、内職と様々な仕事をして私達を育ててくれた。私がやっと中学を卒業し、就職が決まった年、父親代わりの祖父は張りつめていた糸が切れるように脳溢血で倒れてしまった。
 父が出征をしていく日、見送りに出た私の心には、練兵場での軍の隊列の中で手を振る父の姿と軍靴の音がしっかりと刻まれ、その後毎日夢を見るようになり、夢の前後には軍靴の音が「ゾク ゾク」と脳に突き刺さり、身を丸め震えて目が覚める日が何年も続き恐怖だった。

 今、安全保障の名の下で、また繰り返そうとしている戦争法案を廃案にするまで、あらゆる努力をしていきたいと思っている。