深まる平和の危機に立ち向う
-私の戦中戦後の体験を通して-

今年は戦後70年、国民の力で平和憲法を守り通し、一人の戦死者も出さずに来た記念すべき年です。このことが世界で評価され、日本国民がノーベル平和賞にノミネートされました。ところが、この流れに棹さす 安倍政権による「戦争する国」への大転換が、大多数の国民の反対の意向を無視して強行されています。今戦争の実体験を聞いて平和への思いを固め合うことは絶対に必要です。私の体験と平和の実践を記させていただきます。

1. ささやかな戦争体験

1)  私が6才の時太平洋戦争が始まりました。村のお兄ちゃん達が「お国の為に行きます。天皇陛下に命を捧げて来ます」と、挨拶して出征し、多くの方は白い箱に入って帰ってきました。私たちは子供心にお国とは何かを考え、「お国とはふるさとのこと、このふるさとに命を捧げる、これぞ男の生きる道だ」と納得し合いました。

2)  昭和20年7月、突如漆黒の空から焼夷弾が降りかかって来ました。私の生家は中山道69次の一つ河渡宿で、長良川の西岸の街道に並ぶ約60戸の集落でした。家々はたちまち火につつまれ、女子供は集落を囲む田んぼの道へ逃げました。しかし田植を終えたばかりの田は火の海でした。恐怖の一夜を明かし、焼けあととなった家へ帰ると、少ししか家財が出せなかったと残念そうな父親の足元に、私が可愛がっていた猫がちょこんと坐っていました。

3)  20年8月上旬、小学生5名で長良川の堤防の道を下校していました。ふと気がつくと左上空に艦載機がせまっており、操縦士と風防眼鏡越しに目が合いました。あわてて土手へ飛び退き、背の低い竹藪から目をこらすと、道に機銃掃射による一列の土けむり見え、ぞっとしました。艦載機が去った方に目を移すと、川面がかげろうにゆれていました。

4)  小学校3年生以上は学校での授業は殆どなく、出征した農家の手伝いばかりでした。麦踏み、開墾、麦刈り、田起こし、お田植、田の草取り、さつまいも作り、畑の草取り、蚕の桑くれ、稲刈り、脱穀、いなごとり、落ち穂ひろい、桑の枝の皮むき等々あらゆる農作業を行っていました。
悲しかったのは昼のべんとう。水っぽい麦ばかりのごはんは持ち歩いているうちに弁当箱の片側に寄り、半分がすき間でした。


2.「あたらしい憲法のはなし」で学ぶ

1)  昭和23年、中学一年で憲法を学びました。教科書は前年に文部省から発行された「あたらしい憲法のはなし」でした。50歳に近い社会科のS先生が、「あたらしい憲法で、日本は二度と戦争しないことに決めた。諸君は天皇陛下万歳と叫んで死ななくともよくなった。自分の思いのまま自由に人生を歩むことが出来るようになった」と涙を浮かべ、声をつまらせて教えて下さった。先生は戦争による悲しい思いをいっぱい持っておられたのでした。その時の教室の情景が今も鮮明に目に浮かびます。

2) 先生は歌人でもありました。昭和25年1月の宮中歌会初めの召人に選ばれました。お題は「若草」でした。

「雪消えて 若草もゆる高原(たかはら)に 牛を放つは 幾月振りか」

のどかで穏やかな山村の、春の喜びの風景が目に浮かびます。そこには先生の憲法を讃える気持ちが込められています。先生は全校生徒に歌会の様子を話して下さいました。その終わりに、「当日は寒かったせいか、天皇の鼻の下に水っ洟が光っていた」とおっしゃいました。戦中なら大変な不敬罪でしょう。天皇に対する先生の複雑な気持ちを吐露されたのでした。

3. 人のお役に立つ生き方こそ

1) 昭和30年、大学2年の時、先輩から「ルポルタージュ赤い病院(昭和27年中央公論:臼井吉見)」を紹介されました。赤い病院とは佐久病院のことで、「貧しい農民が近代的な医療を受けられるあり方を求めて、あくまで専門科学と技術を通して、かつ農村の中で農民とともに常に建設的なたたかいに取り組んでいる病院」と書いてありました。私は、「これだ」と飛びつきました。早速見学に行き、若月俊一院長やスタッフの方々とお逢い出来、また山間の集落の検診の手伝いをさせてもらい大感激して、卒業したら入職しようと決めました。

2) 昭和35年4月インターン(医学実地研修生)として佐久病院の一員となりました。そこで、看護婦さんから医療従事者の4つの心得を事例を通して教わりました。

① 共感(患者さんと喜びも悲しみも一つに出来る心)
② 配慮(患者さんの立場に立った深い心配り)
③ 誠実(患者さんを信じ、真心こめて接し、決してうそをつかない)
④ 尽力(患者さんに一生懸命尽くすこと、それを喜びと出来る心)
これらは誰もが持つごく普通の人間的な気持ちです。ずっと後、これらは協同の心であると知りました。

3) 昭和37年、内科医として佐久病院に入職し、ただ一生懸命だけがとりえの内科医として頑張り続けました。「個人の完成は、全体の完成に向かっての個人の努力の中にある」が座右の銘でした。

4) 長野県厚生連はクローズドショップ制でした。私は労働組合の活動にも積極的に参加しました。医療に働く組合員の明るさ、やさしさ、誠実さ、良い医療への熱い思いに心打たれました。働くことは、同時代人の必要に応える最も人間らしい行動であり、そこから深い喜びが得られることを学びました。


4.  祖国への愛をこめて、平和への道を切り開く

1)  昭和47年6月、NGO国連軍縮特別総会に医療班として参加しました。世界各国から100万人が集い、セントラルパークから国連ビルまでの100メートル道路を終日埋め尽くしました。軍縮への道が大きく開けたと思い、心がおどっていました。その時ニューヨークタイムスは、「軍拡こそ戦争への抑止力だ、これがアメリカの哲学だ」との主張を載せました。あまりの見識の低さに怒りがこみ上げてきました。

2)  昭和48年、八千穂検診の成果を全県に拡げる目的で、「集団健康スクリーニング」という検診事業を佐久病院を中心に県厚生連で取り組みが始まり、「健康は平和の礎」をモットーに、5泊6日の検診隊が2班編成で一年中出動していました。若月俊一先生作詞の「巡回検診隊の歌」を高らかに歌って元気を出し合っていました。

一、「・・・君知るやわれらがこころを、平和へのみちいまきりひらく・・・進めわれらが巡回検診隊」

二、「・・・君知るやわれらが願いを 祖国への愛いまここにあり・・・進めわれらが巡回検診隊」

病院の仕事は平和への道に繋がっているのだと遅まきながら気付きました。

  みんなで心と力を合わせ、助け合って進める人と地域の必要に応える私どもの真摯な仕事は、祖国への愛をこめた、平和への道を切り開く「たたかい」なのです。
  このような仕事を通した「たたかい」こそ、深まる平和の危機に立ち向かう強い底力を育てるのです。

日本高齢者生活協同組合連合会
会長理事  市川 英彦