今号も、宮城高齢協の組合員活動部会の企画による「戦後70年、今伝えたいこと」の冊子にまとめられた組合員の皆様からの文章をご紹介させていただきます。

 

戦後70年と兄弟会
神農 太三郎   石巻市

 私の家族一家は昭和18年女川町から栗原市栗駒鴬沢山の神という栗駒山の麓、田代温泉へと疎開したのでした。父母、兄二人、姉二人と私の7人でした。山深い人里離れた小さな部落で上の兄や姉は苦労して学校へ通っていました。一番上の兄はその内東京立川の飛行場に働きに出ました。私以外みんなで田んぼ作りもしたようです。
 ある日、細倉鉱山めがけてB29が雲霞のごとく飛んできて、鉱山は爆撃されました。私は見たのです。そしてまもなく、終戦を迎えたのでした。私が4歳の時でした。流し場の小さな窓にセキレイというきれいな鳥がきて、トントンとつつき、みんなで何か良いことの前触れだと話していました。一番上の兄が毛布を背負っててくてく歩いて帰ってきたのです。
 昭和21年秋、再び女川町へ全員で帰還したのです。それからの私たち家族は生きていくためにいろいろな商売をやり、たいへんな時代を送りました。春田屋というお菓子問屋がやっと軌道に乗ったと思ったら、チリ津波が押し寄せ店は壊滅しました。1960年、私が大学2年の時でした。
 2011年3月11日は、私たち兄弟会の5人が一関の温泉で楽しく過ごした翌日でした。昼過ぎ解散し、仙台、石巻、女川と帰途についたのです。東日本大震災はまたもや大津波が襲い、女川で飲食店を営業していた兄夫婦、姪夫婦は命からがら助かりましたが、店は全壊でした。
 私たち5人の兄弟は仲良しでず~っと毎年兄弟会をやっていました。今も全員健在です。戦後の70年は5人の兄弟のそれぞれの人生はあるものの、戦後の時代に翻弄されながら、二度の大津波を経験して波乱の年月であったと思います。
 今年の8月中旬には志津川のホテルで5人の兄弟会を催す予定でいます。私たち兄弟の健康を祈り、さらに女川の店の再開を楽しみにしているところです。長兄85歳、私74歳。


日本の人口について
神農 太三郎   石巻市

1940年(昭和15年)の日本の人口は、8,800万人です。昭和21年から23年に団塊世代806万人が誕生します。平成25年現在の人口は、1億2,730万人です。65歳以上の高齢者人口は、総人口の25%を占めています。
 キーワードを並べますと、少子高齢化、都市集中化、限界集落過疎化。一方戦後に優生保護法のもと中絶女性が増加し、子作りの自由がコントロールされ、日本の人口は、異常構造現象を創出したのです。団塊世代の死亡期と生まれない子どもが重なり、人口減少社会が続くことになります。
 2060年には、全人口の40%以上が65歳以上となり、8,674万人と予測されます。再び昭和15年当時の人口に戻るのです。皆さんはこの現象にどう思いますか。


わたしの戦後70年
菊地 愛子   仙台市泉区 
(聞き書き:宮城高齢協 山田栄作専務理事)

12月、宮城県で一番初めに塩釜で空襲があった。
私は小学校2年生で、弟が3人いた。
ラジオは警戒警報を鳴らしていたが、B29の轟音で目を覚ました時は、
すでに屋根が燃えていた。
「こんな嘘つきのラジオなんていらないから燃やしておけ」といって逃げた。
母親は3人を連れて、鉄道官舎の方に逃げた。
私と父は、家に水かけをしたが、家は空襲で焼けた。
帰ってみると、家は焼け焦げていた。
家の跡に、どういう訳かもち米が炊けていた。私たちはそれを食べた。


わたしの戦後70年
後藤 千枝子(84歳)  石巻市 

 終戦まぢかになったころは鹿又小学校高等科に在学中で勉強らしい勉強もできず、出征して人手の居なくなった農家に行って働き手として農作業をする毎日でした。農業の経験の有無に関係なくの作業でしたし、戦地へ行った人も、残って家を守った人も、辛く苦しいことばかりでした。
 曽波神の家から仙台空襲で赤くそまった空が見えたことは恐ろしく、忘れることができません。